いなみ

言うよ、だって

銭湯

「ガシガシと洗えるような、そういう関係が良いんだよな」


「分かります。では、いかせてもらいます」


「おう」


ズバッ


「うお、ちょっ(笑)肉が削げてる、肉が(笑)」


「すみません、先輩ともっと深い仲になりたくてつい力んでしまいました…」


「力んで、人の肌を貫通する威力の背中ゴシゴシを出来るって…君の将来をこの眼(まなこ)で見守れる事が私の唯一の楽しみだ」


「先輩、照れます」


ズバッ


「おっほ(笑)、骨まで来たもんだ(笑)いやね、最近の年配者は若者に対してある種のコンプレックスを抱いていてね、それというのが丁度、自分が若かった頃と規範も社会通念もあれよあれよという間に変化していってしまってそれについていけない自分を認めたくない、というような所から来ているのよ。ただ、君は若者の中でもかなりの逸材だ。君、今年で何歳になるんだったかな?」


「21っす」


ズバッ


「心臓まで後もう少しだ(笑)、これ以上は本当にヤバそうカモ(笑)それはさておき、君は小学生の頃、どの教科が得意であったかな?ふーむ、僕の予想では“国語”が得意教科でありそうだけど、どうかな?」


「理科っす」


ズバッ


「心臓がぶら下がっている。心臓が身体から飛び出てぶら下がることなんてあるんだ。心臓というのは大事なもので大事だから骨やら肉やらで包囲されてるんだけど、こうも外に露出していては、いつ死んでもおかしくない。いや、ここまで露骨に外に出ていると逆に清々しいな。誰もこれを心臓だとは思わないんじゃないか。だって、飛び出てるからね。マンガばりに出ている。いや、漫画ではちゃんと真っ直ぐに飛び出てその後、心臓は元いた場所へちゃんと帰っているけども僕の見立てではこの心臓はもう戻らないんじゃないか?そりゃあ、手で掬い上げてやれば、元には戻るけれど、もう、そういうことではない。これはね、もう戻る、戻らないという話じゃないな。これはね、一択。『死』が近い。うん、心臓が外に出ていながらこんなにペラペラ喋れているのが不思議でしょうがない。自分の生命力にビックリしているよ。僕は、こんなにもしつこく粘り強い精神を備えていたのだなと、今になってようやく気付いたよ。いや、これもまた君のおかげだ。しかし、どうして今なんだろうな。そうあれは3年前の冬、妻の美代が私の元を去ってしまった冬だ。あの日は今でも忘れられない。雪が激しく降る冬。美代はね、とても可愛らしい人だった。僕の手には余る素敵な人だった。あの日々は輝いていた。僕が、罪を犯すまではね。ハハ、何、罪と言ってもサイバーテロだよ。良くあるだろ?僕はね、阿部寛のHPにサイバーテロを仕掛けて捕まったんだ。皆、電波の状態が良くない時に阿部寛のHPに飛んで安堵感を得ようとする。僕はその姿勢が許せなかったのさ。しかし僕は、人を殺したくないから阿部寛のHPに八つ当たりすることにした。サイバーテロを仕掛けた時の阿部寛の顔は心なしか悲しそうだったな。「君は偉い、その敵意を最小限に食い止めた。だが、それは悪い事だ」と正論を阿部寛に言われてるような気がしてね、マウスを握った手は小刻みに震えていたよ。最初はしてやったりの歓喜で震えていたと思っていたけど、そうじゃなかった。僕は阿部寛が怖かったんだな。心の奥底で蟠る阿部寛への畏怖がその一瞬で表面化していたんだな。どれだけ取り繕ってもこの感情だけは拭えない。これに気付いたのは刑務所の食事休憩の時間、隣に座ってきた体臭がキツいジジイの一言だった。「ここ出たらな、寿司をいっぺえ食う。出来るだけ食うんよ。昔の俺は日常に落ちている楽しさの欠片を踏んでは嘲笑していたのよ。こんなもんは紛いモン、これを拾って嬉しいだの楽しいだのほざいとる奴はバカや。と思っていた。実際は違った。些細な、どれだけ小さな物でも見つける努力や、工夫は人生に艶を出すんや」目から鱗だったな。そうなのだ、鶏が先か卵が先かみたいなのはこと、人生においては色んなことを言われているがあの臭いジジイが言っていたことはスッと腑に落ちたのよ。瀬戸内寂聴も90歳を超えて様々なことに挑戦している。死ぬ時に「あれをすればよかった」とならないような、悔いのない人生にしたいと言っている。私達は今こそ、今の内に瀬戸内寂聴の金言に耳を傾けるべきではないだろうか」